八女福島仏壇
(Yame Fukushima Buddhist Altar)
数々の伝統工芸が受け継がれている福岡県八女市。
そのなかでも八女福島仏壇は、いくつもの工程の中で多くの様々な職人が携わる、伝統工芸の集大成とも言える重要な存在です。
八女福島仏壇は、昭和52年3月30日に経済産業大臣より、伝統的工芸品に指定されました。
経済産業大臣指定伝統的工芸品 八女福島仏壇
この伝統マークを使った伝統証紙が貼られている八女福島仏壇は、産地組合等が実施する検査に合格した伝統的工芸品です。
ふくおか八女仏壇 証明書
八女福島仏壇協同組合所属の職人が、伝統の技術で製造した仏壇であることを証明いたします。
八女福島仏壇の歴史
八女福島仏壇の由来
八女地方は古くから信仰心の強い土地柄で、地域内には奈良時代建立の大円寺、行基建立といわれる光明寺、その末寺の上妻(八女)の七福寺といわれる寺々がある。しかも、江戸時代に入ってキリシタン禁制が法制化された。このような背景のなかから仏壇作りが始まったとみられている。 八女福島仏壇の創生には、次のような逸話が残されている。 江戸時代後期の文政4年(1821年)、指物大工の遠渡三作がある夜、荘厳華麗な仏閣の夢を見て思い立ち、同業者だった井上利久平、平井三作の両名に協力を求めて仏壇製造を志したというものだ。 しかし、製造技術が確立されたのはもう少し後の嘉永年間(1850年頃)である。これが、九州での仏壇製造の源流ともなっている。江戸時代末期には仕上師18人、彫刻師7人、仏師7人、絵物(木地)師10人を数えるほどに発展した。 さらに久留米藩による住居や生活への各種の制限が解除された明治維新以後、仏壇製造はますます増加。他産地と同じく、明治になって産業としても確立したものと思われる。 明治15年(1882年)には旧・福島町(現・八女市)を中心にして、囲い、彫刻、宮殿、仕上げの4組合が組織され、今日の発展の基礎を築いた。 その後も順調に生産が伸び、産地規模も拡大していった現在、広大な産地を持ち、生産を増加させながらも、昔ながらの伝統技法を守り育てている。
名称の由来
現・八女市(旧・福島町)を中心に作られてきたため、その産地名を冠したものである。
仏壇創始者三氏の生い立ち
遠渡三作
天明6年生まれ。筑後国上妻郡福島町字宮野町(現八女市宮野町)。安政3年10月20日亡 71才 正福寺に眠る。
井上利久平
寛政6年生まれ。筑後国上妻郡福島町字京町(現八女市京町)。安政3年10月8日亡 63才 正福寺に眠る。
平井三作
天明6年生まれ。筑後国上妻郡立野村(現八女市大字立野)。のちに福島町字矢京町の平井忠蔵の養子となる。慶応3年7月22日亡 74才 京町旧宅屋敷に眠る。